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Michael Uno

集団意識の伝染とインスピレーションの関係性について。

鳥の群れが方向を変える時、先頭付近のどれかがまず方向を変えて、それに呼応するように若干のディレイを伴って全体がその方向に合わせる。魚の群れでも同じようなパターン。そして羊も。

この行動パターンは外敵から身を守るための本能的習性だと思われるが、人間にも似たような機能が備わっている。コンビニなどで、誰かがレジに向かうとそれにつられて一斉にレジが混雑する現象。小さな洋服店などでも起こる。目立ちたくないという潜在意識が働いているのだろうか。

一方で、SNS などを観察していると、世論の波というのがあるのが分かる。最近はフェミニズムや環境問題に関する意見を声高に叫ぶ人が増えている印象。

暴力沙汰のあおり運転や老人の暴走運転などの事件が起こる度、 メディアの先頭に立つ旗振り役のコメンテーターや評論家、ニュースキャスター、解説者、情報番組の司会者が、この事象はこう捉えるべきだよね、という意見を発信し、世間が それに呼応する。

もちろん、賛否両論ある中で、時にはメディアは世論誘導に失敗する。今はネットのおかげで一昔前なら失脚もの 失言をした政治家でも、一部の支持者の熱意で生き残っている議員もいる。しかし、どちらかというと、全体としては仕掛けられた方向に向いていることが多い印象だ。

この現象自体は、ありふれた言葉で言うと「風潮」に他ならないが、なぜこの集団意識の伝染が起こるのだろうか。

意見を述べるというのは、「これが良い」だとか「こっちの方が良い」といった価値観の表明であり、それは発言者が提示する行動の方向性の指針でもある。つまり、その者は方向を指し示している事になる。

そして、人は本能的に、誰かが示した方向に反応するようにできている。その方向が正しいか正しくないかの判断が先に来るのか後に来るのかはケースバイケースで定かではないが、拒絶にしろ同調にしろ、反応現象は引き起こされる。判断材料が少な過ぎて分からない場合は大体の人は大道に合わせる。無反応のケースは稀だろう。

となると、社会の中で生きる一個体は、その社会全体の影響を受けざるを得ず、一個体単一で行動の方向性を決定するということは不可能に近い。

で、自己表現する人達がよく言う、~にインスパイアされました、とかいうのって、何か強い表現に影響されてそれを自分なりに咀嚼したアンサー表現な訳だ。これって、集団意識の呼応現象と同じ。

単なる一個人の表現にも、表現活動を生業にしている人の表現にも、同じメカニズムが働いているのだとしたら、一個人の意思表明で世界は変えられる可能性を示している。自分には影響力がないと思うのは早計で、影響力のある人間を影響させれる微々たる力があればそれは絶大な力に変わるってことだよ。

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