知性とは何か。全てはパターンである。これを読み解こうとする性質。
裏返せば、パターンなしには認識という行為が成立しない。言語そのものが、パターンによって形成されているため、コミュニケーションに言語が介在する時点で、両者がコミュニケーション内で使われるパターンを学習していなければ成立しない。
認識のプロセスにはパターン化が不可避。認識=パターン化と言っても過言ではなく、”概念”は小さなパターンの組み合わせである。そして、概念は、感覚概念 (視覚概念、嗅覚概念、聴覚概念、触覚概念 etc) から言語概念に変換され、言語化される。例えば、”マグカップ”と言うと、掌に乗るくらいの持ち手の付いた厚みのある器が思い浮かぶが、これは視覚処理された映像をイメージしており、言語が存在していない状態では、その頭の中で再現されたイメージは視覚概念である。あの人の顔は思い浮かぶが名前が出てこないというのは、この感覚概念から言語概念への変換に不具合が生じていることを示す。想起とはイメージの再現であり、再現とは同様のものを作り出すという行為で、パターンを認識していなけばできない。そして、人はその視覚概念を、言語概念という文字を使う概念に変換し、コミュニケーションを行っている。概念の概念化、上位変換、つまり、抽象化である。文字というのは、記号であり、記号とは現象の抽象化である。アルファベットでさえ、起源を辿ると象形性を帯びており、a は牛の頭から来ていると言われている。つまり、私達は抽象概念の組み合わせを駆使して記憶し、思考し、コミュニケーションを取っているのである。
ここにおいて、繰り返しになるが、現象を知覚し、パターンとして概念に落とし込んだ時点で、認識は全てパターン化されている。個パターンの集合体と言い換えても良い。そして、そのパターン化された概念の組み合わせをやり取りして、我々は意思疎通しているのだ。
この世に溢れるパターン。それらを読み解こうとする姿勢が知性であり、言い換えると、知性とはパターン認識への渇望である。知性を磨くとはパターン認識を広め深める行為である。