最近、自分のことは棚に上げる技術、というのを考えている。
「リテラシーを高めることが重要だ」と声高に叫ぶ人が実はリテラシー高くなかったりする。で、それを指摘することの生産性ってあるのかなあと。ある程度の知的水準に達すると、人の偽善に気がついたり、己の能力を振り返り、他人へ能力を要求することに躊躇してしまう。
自分は大したリテラシーもないのに、周囲にリテラシーを高めることを要求するってどうなんだろうって。ダニング・クルーガーに言われるように、己を知り、一般水準よりも高いリテラシーを持つ人に限って、自分は大した事ないことを知っているので、そのようになってしまう。つまり、周囲の不甲斐なさを嘆き、周囲に変化を要求する人ってある種、盲目でないとできない。
で、最近思うのは、もしかしたら、それでいいのかもな、ってこと。
完全な人間はいない。99%以上の人間は未熟。だったら、「うんこがうんこは汚いからキレイになろう」って周囲のうんこに鼓舞するのって何も悪いことじゃない気がする。
ただ、圧倒的未熟者が一般水準の未熟者を批判することにイラッとするのは自然なこと。問題は多分ここなんだろう。この状況に出くわした時の心の持って行き方をどうするか。一呼吸おいて、「周囲も未熟。この人も未熟。そして私もまた未熟」そう思って、粛々と改善に努めたらいいのかな。普段からそうしておけば、いざ自分が何か周囲を鼓舞すべきシチュエーションに出くわした時、しっかりと、自分のことを棚に上げて、ちょっとイキがったことを躊躇なく恥ずかしがらず言えるのではないだろうか。
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秘法、厚顔無恥の術!