一つ気になったのが、大まかな対立構造として、仁と非仁があり、それぞれ、劉備、曹操がそのアイコン的役割を担っている。曹操曰く「人我背くとも、我人背かせじ」。対して劉備は「人我背くとも、我人背かじ」。ここにおいて、「非道」という概念はあれど「悪」という概念が無い。西洋文明で言うところの悪は、予め人に備わった性質という前提がなされている印象。
もしかすると、キリスト教圏での悪の概念は人間は本来善な存在として位置づける考え方から立脚しているのではないか。善行悪行などというのは条件によって、一個人はどちらにへでも振れるものであり、無条件に悪とされる存在を作り出すというのは、対になる無条件に善であるという存在を作り出すことに他ならず、ある種の思い過ごし、勘違いと言える。
その勘違いを上手く利用して、罪悪感を共有し、それを正そうとすることで社会を機能させてきた側面を鑑みると合理的かもしれないが、ありのままを捉えるという視点では精度に欠き、それが自然の力を軽視する傾向に繋がっているとも言えるかもしれない。