脳は肉体の一部。精神活動が脳によってなされるのであれば、精神は肉体の一部と言える。
概念は肉体の一部だろうか。脳内で起こるシナプスを行き来する電気信号の運動自体は、血液の流れと同様、体内で起こる物質の移動。血液が肉体の一部なのであれば、脳内で想起された概念は肉体の一部ということになる。
ただし、A さんの血液が B さんの肉体の一部ではないのと同様、A さんの概念を形成する脳内活動は B さんのそれとは一致しない。シナプスの繋がり方は個人によって千差万別。よってそこを流れる電気信号のもつれ方、またスピードも全く違うものとなる。
ただ、その異なる組成によって形成される脳内活動という概念によってもたらされる現実生活上の選択が複数の人間の間で一致することがある。例えば、信号の色の識別で、青を発進の合図だという具合に、具体的事象と関連付けられた行動の中での一致する選択を集団の中のほぼ全員が共有できる時、「概念」なるものは時空を超えて存在するかのような錯覚を覚える。
しかし、それは錯覚に過ぎない。実際、抽象度の高い概念になると、とたんに共有できなくなる。例えば、「善」という概念を突き詰めると、人それぞれ違う。 死刑制度を是とする国もあればそうでない国があるように、宗教、人種、民族によって様々な善がある。同民族同士でも世代、性別によって捉え方が変わる。
また、言語が違うというのは、概念の組成が違うことを意味する。文字が違うということは言語概念を組織づくる視覚パターンの最小単位のフォルムが違うということであり、これは、異言語間で同じ概念を共有することはありえないことを示している。
これを踏まえると、ということは、言語を介するコミュニケーションは、個々人で行われる脳内活動の記号化からの概念化に基づく現象化の擦り合わせと言い換えることができる。
それは身体から生まれた活動の生成物の絡み合いに他ならない。文字に起こされた思考。一見、無機質だが、実は有機的活動の焼き付けに他ならない。
Postscripts
写真は、自然現象である光の焼き付けだが、有機媒体を介していない。一方、写実絵画は、一度視覚概念に落とし込まれており、有機媒体を介している。
ここで述べたのは、概念は脳内活動の肉体で言うところの体液みたいなもので、電気信号としての物質的側面を備えているということ。
そうなると、概念を計量することができるのか、という疑問が生まれるが、概念を想起する一連の活動エネルギー量を算出したところで、人それぞれ全く違う結果が出るだけ。
物質的側面としての概念を述べた。ここで、「『無限』という概念は有限か?」という問いにどのように答えるのが適切だろうか。
答え:
物質概念としての『無限』はそれを想起する者の身体的有限性を帯び、有限である。仮想概念としての『無限』は文字通り、無限である。—-
ちょっと、概念がインターセクトしてて言語の限界を感じる。